心が何も浮かばないという状態と悟りの状態との差異はなぜ存在するか

 

 心に何も浮かばないというのも人間として危機的な状態ではあるのですが、無理に何かをひり出したところで、それがあまりに無価値であったり痛々しい内容であったならばその代償はあとで(主に自分の見えないところで)払わされるものかもしれない。

 

 と、放置していたブログをどのような処遇を与えようかと考えあぐねた挙句、このようなことを文章としてしてみたわけです。

 そもそも「心に何も浮かばない病」を何とかすることを目的とし、昔のブログ文化を懐かしみつつ、再びはてぶに触れてみたわけだが、そもそも写真を趣味としていたならペタペタと写真を張ればよいがそうではないので文章を書かねばならぬ。文章を書くには頭を働かさねばならぬわけで、頭の調子がまったく良くない状態では何も書けない。まるでトートロジー

 

 ということでタイトルは完全なフェイクです。思いつきです。「頭が動かない」ということをかなり無理やり押し広げてとりあえず日本語を構築した(第一文目)あと、思いつきで「らしい」タイトルを捏造しました。さて、タイトルというもの(それ単体では価値がないけれど)を「思い」つけた時点で心に何も浮かばない状態から一瞬ながら脱することが出来たのかもしれません。

 

 やったね。

 

 痛々しいのは脱してませんが。

 

 天国の氏には失礼ですが、伊藤計劃氏のブログをぱらーと見たあとだと、なんだか、キーボードに文章を叩きこむことに対するブロックが急速に弱まる、そんな気がしている。

 

 これからもずっと「ブログに書くことがないよ」と書き続けるブログになるのはやだな、とは思う。さてさて明日はきっと忙しいから書けないとしてもどうなるよ。