2015年6月発売中公新書まとめ

2015年06月|新書|中央公論新社 より。

個人的に気になるのは『李光洙』と『テロルと映画』。

 

旅の流儀 (中公新書)   李光洙(イ・グァンス)――韓国近代文学の祖と「親日」の烙印 (中公新書)   テロルと映画 - スペクタクルとしての暴力 (中公新書)

カラー版 イースター島を行く―モアイの謎と未踏の聖地 (中公新書)   文明の誕生 - メソポタミア、ローマ、そして日本へ (中公新書)

 

 

- 『旅の流儀』 (玉村豊男 著)

- 『李光洙――韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』 (波田野節子 著)

李光洙(り・こうしゅ、イ・グァンス)は韓国の夏目漱石である。近代文学の祖とされ、知らぬ者はいない。韓国併合前後に明治学院早大で学び、文筆活動を始めた李は、3・1独立運動に積極関与するが挫折。『東亜日報』編集局長などを務め、多くの小説を著した。だが日中戦争下、治安維持法で逮捕。以後「香山光郎」と創氏改名し日本語小説を 発表。終戦後は、「親日」と糾弾を受け、朝鮮戦争で北に連行され消息を絶つ。本書は、過去の日本を見つめつつ、彼の生涯を辿る。

- 『テロルと映画 ーー スペクタクルとしての暴力』 (四方田犬彦 著)

2001年のアメリカ同時多発テロ事件後、ハリウッドをはじめ世界各国で、テロリスムを主題とする映画が数多く製作されている。現在にいたるまでの半世紀、映画は凄惨な暴力をいかに描いてきたのか? 本書は、テクノロジーの発展やテロリストの内面など、多様な観点からブニュエル若松孝二ファスビンダーらの作品を論じ、テロリスムと映画の関係性をとらえ直す。それは、芸術の社会的な意味を探る試みでもある。

- 『カラー版 イースター島を行く ーー モアイの謎と未踏の聖地』 (野村哲也 著)

- 『文明の誕生 ーー メソポタミア、ローマ、そして日本へ』 (小林登志子 著)

 

 

日本の場合、本当に国を揺るがした事件は映画やなんかになりにくい、と自分は思っている。

たとえば3.11について連想させるような(津波であれ原発であれ)作品を出すことについて自粛する傾向がある気がするけどどうだろう。サザンのTSUNAMIはまちがいなく名曲なんだけれどあの曲を流すことについてテレビ業界ではもうとっくに規制はなくなっているのだろうか、それともまだタブーなのか*1 。ジャーナリズムであったり政治的主張を排して純粋に文芸作品や娯楽作品として楽しめるような原発テーマの映画を上映するなんて不可能だ。

そこのところアメリカは恐ろしい。国が直近に行ったor現在進行形で泥沼に足をつっこんでいる戦争をテーマに娯楽作品を作って、それが名作として語り継がれたりアカデミー賞を受賞したりする。

これは国民性の違いなのか。もしくは「テロリズム」というテーマならば映画との融和性がつよいということだけなのだろうか。そもそも「テロ=9.11以後」図式自体が有効なのか。日本映画をとってきても(アニメだけど)押井守の『パトレイバー2』はサリン事件以前にテロを扱っていてそれでいてきちんとゴラクしている(しかも描写が予見的でさえある)。

 

......と、考えにとりとめがつかない。自分には映画を総体として理解したり表現することがまだまだ難しいようだ。

 

 

*1: そもそも「津波のような寂しさ」という表現が優れすぎていたというところがある。「10mの高波のような寂しさ」みたいなのに襲ってきたら、高波でも人は死ぬし大変なことだけれど10mの津波と比べれば破壊力が恐ろしく違う。これは所詮は一時の感傷といった程度のものだ。友達と馬鹿騒ぎすれば一晩で忘れられる失恋のようなものだ。津波という言葉を用いなければその絶望感が表現できない寂しさだってあるのだ、と強弁したい(何故に)。すくなくとも津波というものの破壊力を知った、だからこそ歌詞の意味がまた違って感じられるということもあるのではないか。 「津波で人を亡くした方がたくさんいるのにその言葉を使うべきではない」というのなら、病気や殺人、自殺やなんかの遺族もたくさんいるんだからドラマ脚本でそういう言葉を使ってもアウトにならないんだろうか。